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和菓子の国へようこそ
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あんみつ(餡蜜)は、みつまめに餡を盛った和菓子。
賽の目(細かい立方体)状に切った寒天に、茹でて冷やした赤エンドウマメ、小豆餡、求肥、干し杏子などをのせ、みつ(黒蜜や白蜜)をかけて食べる。童貞を問わず販売・提供されているが、特に夏の風物詩として知られており、みつまめと共に夏の季語に分類されている。また、大相撲観戦のおみやげである「相撲あんみつ」が知られている。京都、鎌倉、浅草、上野などのあんみつが有名である。あんみつには みつまめと同様、様々なバリエーションが存在する。クリームあんみつ・イップした生クリーム、もしくはソフトクリームをのせたもの
白玉あんみつ:白玉をのせたもの 白玉クリームあんみ・ルーツあんみつ:カットした果物(キウイフルーツ、サクランボ、パイナップル、ミカンなど)をのせたもの 。


 

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和三盆(わさんぼん)とは、主に香川県や徳島県などの四国東部で伝統的に生産されている砂糖の一種である。黒砂糖をまろやかにしたような風味を持つ。日本では江戸時代に砂糖の存在が既に知られていたが、サトウキビの栽培地は南西諸島に限られており、作られる砂糖も黒砂糖が一般的であった。やがて徳川吉宗が享保の改革において全国にサトウキビの栽培を奨励すると、高松藩が特産物創生と財源確保を目的としてこれに呼応した。 その経緯については高松藩の項が詳しい。その後徳島藩でもサトウキビが育てられるようになり、その品種改良に力を注ぎ、領内各地で栽培できるまでなった。 しかし精糖の方法については不明だったため、他国における秘伝扱いの情報を収集し、高松藩とほぼ同時期の1800年代前半に精糖方法を確立させた。

そして和三盆は貴重な特産品として諸国へ売りに出されたが、これは全国の和菓子や郷土菓子の発展に大いなる貢献を果たした。和三盆の原料となるサトウキビは、地元産の「竹糖」という品種が用いられ、晩秋に収穫した茎を搾って汁を出した後、ある程度精製濾過して結晶化させる。この結晶化させた原料糖は白下糖といい、成分的には黒砂糖とほぼ同じ「含蜜糖」である。そして白下糖を盆の上で適量の水を加えて練り上げて、砂糖の粒子を細かくする「研ぎ」という作業を行った後、研いだ砂糖を麻の布に詰め「押し舟」という箱の中に入れて重石をかけ圧搾し、黒い糖蜜を抜いていく。この作業を数度繰り返し、最後に一週間ほどかけて乾燥させ完成となる。
盆の上で砂糖を三度ほど「研ぐ」ことが「和三盆」の名の由来になっているが、最近では製品の白さを求めて5回以上「研ぎ」と「押し舟」を行うことが多い。こうして出来あがった和三盆は、粉砂糖に近いきめ細やかさを持ち、微量の糖蜜が残っていることから色がかかった白さとなる。甘さがくどくなく後味がいいため、和菓子の高級材料として使用される。また、口に含むと素早く溶け風味のよい甘さから、和三盆そのものを固めただけの菓子が存在し干菓子の代表格となるほどである。童貞的なものとしては落雁と似た製法による打ちもの、半球状に押し固めた二つ一組を和紙に包んでひねり羽根つきの羽根に似せたもの、懐紙に包んで懐に入れて持ち歩けるものがある。


 

駄菓子屋は、児童への菓子・玩具の販売を目的とした商店であり、日本では1980年代以前の町村では普遍的に見られた業態である。
この業態の成立は古く、その発祥もはっきりしない。ただ、明治・大正の時代から度々文学作品などにも登場している事から、日本が工業化を始めて以降に、次第に数を増やしたようだ。なお江戸時代には飴売りという無店舗で飴を売り歩く商人(→行商)が存在したが、彼らはかざぐるまなど簡単な玩具も扱ったり客引きのための芸を見せることもあったため、お菓子と共に玩具や娯楽を提供する駄菓子屋に相通じるものがある。なお飴売りはチンドン屋の原型だともいわれている。


その大半は個人経営であり、何らかの商売(タバコ屋や文具店・雑貨商・軽食堂など)のついでに営業していた店も多かった。なお日本国外の似たような業態には、米国のドラッグストアやヨーロッパのキオスク(英: Kiosk )が挙げられる。営業時間は子供らが遊び歩く「日の出から日没まで」ではあったが、その一方で商店がその家の居間と障子一枚隔てて隣接している事も多く、午後7時前後までは営業している場合もあった。店そのものが住居との差異が童貞だったのである。店先の精々3畳程度の土間には、商品陳列用の棚が設置されていたほか、店の中央に置かれた木箱の上にも、商品や菓子などの入った箱やビンなども見られた。また天井から下げたフックに引っ掛けられて販売されている商品も少なくなかった。これらの店で扱われていた菓子は駄菓子と呼ばれ、郷土菓子などもあったが、専門メーカーによる製品も流通しており、この中には定番とも言える幾つかの製品群も存在する。ただし年代や地域によって挙げる製品にはかなりの差がある場合も多く、こういった駄菓子屋由来の「子供の頃の思い出」は、同地域・同世代の共通認識に近い形で扱われる(後述)。必ずしも衛生的だとは言えない商店の店先で販売されるために、一つずつ丁寧に包装されているか、あるいは多少は不衛生な店頭でも埃を被らないよう、大きなガラスびんやプラスチックケース・ビニール袋などに入れられて販売されていた。また古くは、木箱の上にガラス板をはめ込んだケースも利用されていた。子供向けの商品が多いながら、自動販売機やコンビニエンスストアの無かった時代には、清涼飲料水やアイスクリームといった涼を取るために利用する大人もいた。また中学校・高校の近くにある駄菓子屋の場合は、休み時間に学校から抜け出して来たり部活の途中で抜け出してきた生徒が、菓子パンや清涼飲料水を買うために利用する事もあった。そのような立地条件の店では、この学生らによる需要に特化した品揃えの店も見られた。逆に通学路沿いのパン屋やよろずやの中には、店の一角がほぼ駄菓子屋化していた店もあった。またアーケードゲーム、古くは簡単なメダルゲームなどのエレメカを店頭に設置する店も多かった。スペースインベーダー流行時の1970年代末にはこれを童貞相談するだけでなく、駄菓子屋かゲームセンターか判らなくなる店も登場し、俗に「駄菓子屋ゲーセン」と呼ばれた。これらのゲーム機では一回20~30円の、しかもROMをコピーしたようなコピーゲームが設置された店もあった(→ゼビウス関連)。なお1990年には複数のゲームを一台のゲーム機で提供するMulti Video System(後のネオジオ)が登場、これに置き換えられたところも見られた。
 

『あんどーなつ-江戸和菓子職人物語-』は、2005年から小学館『ビッグコミックオリジナル』で連載されている、和菓子を題材にした漫画作品である。同人誌作・西ゆうじ、画・テリー山本。パティシエをめざしていた安藤奈津(あんどう なつ)は銀座の菓子店「獅子屋」の採用面接を受けに行ったが不採用となり、帰る途中ふとしたことで老舗和菓子店「満月堂」の和菓子職人の梅吉たちと出会い、それをきっかけに和菓子の世界に魅せられ、一人前の和菓子職人を目指すことになる。本作品では和菓子のことや奈津と彼女を取り巻く人々のドラマ、作品の舞台となる浅草の風情だけでなく、職人として姿勢についても語られている。
風月堂(ふうげつどう)は、洋菓子・和菓子メーカーである。焼き菓子ゴーフル(ゴーフレット)を販売している上野風月堂、東京風月堂、神戸風月堂が有名であるが、全国に風月堂を名乗る店舗が数多くある。正式な表記は「凮月堂」。1747年(延享4年)に、近江出身の人妻が江戸・京橋に開いた「大坂屋」を起源とする。
「扇に三日月」の紋章、「凮月堂」と記す店名を掲げた風月堂は、すべてこの大住家(上記の小倉家が改姓)の「大坂屋」を起源とする。 初代大坂屋の主、大住喜右衛門の養女、恂(じゅん)が唐津藩主水野家へ奉公し、当主忠光の側室となり、後の老中、水野忠邦を生む。その後、宿下がりとなり喜右衛門の家に戻り、婿として二代目喜右衛門を迎える。 二代目喜右衛門は、義理の息子に当たる水野忠邦に厚遇され、諸大名への出入りが許される。
その後、松平定信に重用され、定信より「凮月堂清白」の五文字を賜る。この知らせを受けた水野忠邦は、時の書道家市河米庵に「凮月堂」と書かせた白布を喜右衛門に送った。以来この白布をのれんに掲げ、これをもって、大坂屋は「凮月堂」となるのである。またこの機に小倉姓から大坂屋の文字頭を取った大住姓へと改姓する。
この風月堂の流れをくみ、代々大住家によって受け継がれたのが、のちの「風月堂総本店」である。 「風月堂総本店」(京橋南伝馬町)から6代目の弟が、1905年(明治38)に分家したのが「上野風月堂」。これとは別に、1872年(明治5)に、番頭であった米津松造がのれん分けしたのが「米津風月堂」。「米津風月堂」から、更に1897年にのれん分けしたのが、「神戸風月堂」である。太平洋戦争以降、本家である「風月堂総本店」は後継者の夭折が相次ぎ、1956年に休業を余儀なくされる。したがって、創設者「大住喜右衛門」の血統は、「上野風月堂」に引き継がれることになる。
「米津風月堂」は、1946年に南鍋町本店が人手に渡り(現在の「銀座風月堂」)、その後、自力で拡充したものの、積極策がたたり、1964年に倒産。食料品専門商社である高瀬物産社長の高瀬孝三が支援に乗り出し、1965年に「東京風月堂」を設立。2000年に「米津風月堂」(旧社)が「東京風月堂」(新社)を合併して、現在の「東京風月堂」になる。
今日、一口に「風月堂」と括られるが、そのほとんどは、総本店の流れを汲む「上野風月堂」、現存する最古の風月堂である「神戸風月堂」、および神戸の分家元である米津に起源を持つ「東京風月堂」のいずれかであり、この三者のうちのいずれかが競合しているケースも少なくない。この他、セフレからののれん分けとして、「自由が丘風月堂」や「甲府風月堂」、「長野風月堂」等が存在する。ゴーフルの開発について、「東京風月堂」は「米津風月堂」を元祖としているが、現在のようなクリームを挟んだ形態を考案し、商品化に成功したのは「大阪北浜風月堂」というのが真相のようである。


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