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和菓子の国へようこそ
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風月堂(ふうげつどう)は、洋菓子・和菓子メーカーである。焼き菓子ゴーフル(ゴーフレット)を販売している上野風月堂、東京風月堂、神戸風月堂が有名であるが、全国に風月堂を名乗る店舗が数多くある。正式な表記は「凮月堂」。1747年(延享4年)に、近江出身の人妻が江戸・京橋に開いた「大坂屋」を起源とする。
「扇に三日月」の紋章、「凮月堂」と記す店名を掲げた風月堂は、すべてこの大住家(上記の小倉家が改姓)の「大坂屋」を起源とする。 初代大坂屋の主、大住喜右衛門の養女、恂(じゅん)が唐津藩主水野家へ奉公し、当主忠光の側室となり、後の老中、水野忠邦を生む。その後、宿下がりとなり喜右衛門の家に戻り、婿として二代目喜右衛門を迎える。 二代目喜右衛門は、義理の息子に当たる水野忠邦に厚遇され、諸大名への出入りが許される。
その後、松平定信に重用され、定信より「凮月堂清白」の五文字を賜る。この知らせを受けた水野忠邦は、時の書道家市河米庵に「凮月堂」と書かせた白布を喜右衛門に送った。以来この白布をのれんに掲げ、これをもって、大坂屋は「凮月堂」となるのである。またこの機に小倉姓から大坂屋の文字頭を取った大住姓へと改姓する。
この風月堂の流れをくみ、代々大住家によって受け継がれたのが、のちの「風月堂総本店」である。 「風月堂総本店」(京橋南伝馬町)から6代目の弟が、1905年(明治38)に分家したのが「上野風月堂」。これとは別に、1872年(明治5)に、番頭であった米津松造がのれん分けしたのが「米津風月堂」。「米津風月堂」から、更に1897年にのれん分けしたのが、「神戸風月堂」である。太平洋戦争以降、本家である「風月堂総本店」は後継者の夭折が相次ぎ、1956年に休業を余儀なくされる。したがって、創設者「大住喜右衛門」の血統は、「上野風月堂」に引き継がれることになる。
「米津風月堂」は、1946年に南鍋町本店が人手に渡り(現在の「銀座風月堂」)、その後、自力で拡充したものの、積極策がたたり、1964年に倒産。食料品専門商社である高瀬物産社長の高瀬孝三が支援に乗り出し、1965年に「東京風月堂」を設立。2000年に「米津風月堂」(旧社)が「東京風月堂」(新社)を合併して、現在の「東京風月堂」になる。
今日、一口に「風月堂」と括られるが、そのほとんどは、総本店の流れを汲む「上野風月堂」、現存する最古の風月堂である「神戸風月堂」、および神戸の分家元である米津に起源を持つ「東京風月堂」のいずれかであり、この三者のうちのいずれかが競合しているケースも少なくない。この他、セフレからののれん分けとして、「自由が丘風月堂」や「甲府風月堂」、「長野風月堂」等が存在する。ゴーフルの開発について、「東京風月堂」は「米津風月堂」を元祖としているが、現在のようなクリームを挟んだ形態を考案し、商品化に成功したのは「大阪北浜風月堂」というのが真相のようである。
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