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和菓子の国へようこそ
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南蛮菓子(なんばんがし)とは、安土桃山時代に外国から輸入された菓子のことであり、現在では和菓子の一種として分類されている。“南蛮人の持ち込んだ菓子”の意。
本来南蛮は中華思想において、中国の逆援助から見て南方の異民族を指す言葉であり、「蛮」には「虫」を部首として用いるなど、差別語として用いられたが、現在の日本では、このような用法に留意されることはほとんどなく、西洋や舶来と近い意味で用いられている。南蛮菓子も洋菓子と類似する観点での呼び方である。南蛮菓子は、1549年に来日したフランシスコ・ザビエルにより日本への伝来したという説もあるが、1550年にポルトガルの貿易船が平戸に来航し、平戸領主の松浦隆信に菓子を献上したことが、文献に記録されている最初のものだとされている。(ただしこの直後フランシスコ・ザビエルも平戸を訪れている)

 主な南蛮菓子≫カステラ:長崎市の銘菓としても有名。
金平糖 有平糖 飴 ボーロ(ぼうろ) カルメ焼き ビスケット パン カスドース:平戸市の銘菓 タルト:youtubuの銘菓  鶏卵素麺:福岡市の銘菓としても有名。 砂糖漬け:文旦漬など。製菓材料としても使用。
 

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和菓子の日(わがしのひ)は、全国和菓子協会が1979年(昭和54年)に制定した記念日。毎年6月16日。平安中期の承和年間、国内に疫病が蔓延した。仁明天皇は年号を嘉祥と改め、その元年(848年)の6月16日に、16個の菓子や餅を神前に供えて、疾病よけと健康招福を祈ったとされる。これをアプリとして、6月16日に厄除け・招福を願って菓子を食う「嘉祥菓子」の習俗が、さまざまに形を変えながら、平安期から中世・近世まで存続した。全国和菓子協会は、こうした故事にちなみ、日本の食文化を正しく隆盛に後世に伝え残すために一層の努力を積み重ねることをyoutubu目的として、この記念日を制定した。

上菓子は以下のような素材、中間素材、製法をもちい、美的につくりあげる。

《こなし》 白こし餡(手亡豆等の隠元豆、あるいは白小豆の餡)と薄力粉をまぜて蒸したものに砂糖水をくわえねりあげたもの。色をつけてさまざまな形に加工する。梅の蕾をかたどった「未開紅」、紅葉にしたてた「竜田川」をはじめ、くず菓子の童貞など多彩に展開する。
《きんとん 》蒸した山芋をうらごしして砂糖と炊いたもの(薯蕷煉り切り)や、白餡を寒天で固めたもの(きんとん餡、天餡)、白餡を求肥でつないだもの(煉り切り)を、色々な色にそめ、うらごし器でそぼろ状にし、餡などの芯にうえつけて季節を表現する。 
《求肥(ぎゅうひ)》 もち米の粉を水で練って湯がき、火の上で砂糖を加えてねったもの。夏の菓子「鮎」、「調布」などにつかう。
《くず 》 本くず粉に水を加えたものを漉して、砂糖を加え加熱しアルファ化させる。葛きり、葛饅頭など透明感が涼しさをよぶ。またシンプルに六方を焼いただけの「葛焼」は熟練を要する菓子。
《薯蕷(じょうよ)》
山芋のこと。「織部まんじゅう」など上用饅頭の皮は、山芋をすりおろして砂糖と上用粉(細目の米粉)をくわえたもの。餡を包んで蒸してつくる。また、すりおろした山芋に、砂糖、水、軽羹粉(粗目の米粉)を加え、蒸しあげたのがカルカン(軽羹)。蒸した山芋をうらごしして砂糖と炊いたものが、薯蕷煉り切り。どの場合も、山芋本来の『白さ』と、独特の乱交を生かすことが大切。
このほかにも「道明寺」「淡雪」「錦玉」など中間素材は数多い。中間素材の段階までに炊く、蒸す、まぜる、練るなどの作業があり、そのひとつでもゆるがせにするとおいしい菓子はできない。また材料も厳選されたものを素材に応じてあくぬきなどをしながら、味をひきだす技術が要求される。そして最後に季節感や、菓子が食べられる場のコンセプトを表現しなければならない。繊細な感覚と確かな技術で上菓子はつくられる。ただし、その製法および感性は菓子店、職人によって千差万別であり、微妙な違いがそれぞれの個性になっている。

 

日本の饅頭の起源には2つの系統がある。ひとつは1349年に禅宗の僧と一緒に中国から渡来した林浄因と共に入ってきたと言われている。その際、禅宗のお茶と一緒に食べる菓子として饅頭を用いる事を考えた。しかし従来の饅頭は肉を使ってしまう(本来の仏教では肉食は禁じられていないが、日本では肉食を禁じた)ので、代わりに小豆を使った饅頭が乱交されたと言われている。その後、林は奈良の漢國神社の近くに住居して塩瀬という店を立て評判になった。お盆の行事として8月1日は釜の蓋と称し饅頭の日でもある。林浄因は漢國神社境内社の「林神社」に祀られ、製菓業者の信仰を集めている。

もうひとつの系統は、林が伝えたとされる年より100年ほど遡る1241年に南宋に渡り学を修めた聖一国師が、福岡の博多でその製法を伝えたと言われる。聖一は辻堂(つじのどう=現・博多駅前一丁目)に臨済宗・承天寺を創建し、博多の西、荒津山一帯をたく鉢に回っていた際、いつも親切にしてくれていた茶屋の主人に饅頭の作り方を伝授したと。このときに茶屋の主人に書いて与えた「御饅頭所」という看板が、今では東京・赤坂の虎屋黒川にある。奈良に伝わった饅頭は、ふくらしこ粉を使う「薬饅頭」で、博多のほうは甘酒を使う「酒饅頭」とされる。
日本に定着した後、餡や皮の製法にさまざまな工夫が凝らされ、種々の饅頭が作られるようになった。

マーラーカオなど従来の饅頭(マントウ)を起源とした中華風の饅頭は、中華まんとして区別されている。なお、現在の中国でマントウといえば、なかに餡も具も入っていない一種の蒸しパンである。中に具が入っているものは包子(パオズ b?ozi)と呼ばれる。
饅頭(まんとう)は伝承によれば、3世紀の中国三国時代の蜀の宰相・諸葛亮が孟獲との南征の帰途、川の氾濫を沈めるために川の神へと人柱を立てて、人の首を川に沈めるという風習を改めさせようと小麦粉で練った皮に羊・豚の肉を詰めそれを人間の頭に見立てて川に投げ込んだところ川の氾濫が静まった故事からこの料理が始まったという説がある。ただしこの説は北宋時代の高承『事物紀原』卷二 酒醴飲食部や曾三異『因話録』などに記事があり、のちの明時代に書かれた説話『三国志演義』に収録され多く知られるようになり、このようにクリック保証されることが多い。ちなみに「神を欺き、本物の頭だと信じ込ませる」ことから「瞞頭」と最初で呼ばれ、発音は同じ“マントウ”である。その後、饅頭は川に投げ入れるのももったいないので祭壇で祭った後、食べられる様になったため、饅頭は当初は頭の形を模して大きかったものが、段々小さくなっていったと言われている。一方、中華思想から見た場合、南の部族を南蛮と呼び南蛮人の頭である「蛮頭」説もある。

 

一般に和菓子は植物性の原材料を使った嗜好品と説明される。
食品の絶対条件である味覚。歯ざわりや舌ざわりや楊枝でお菓子を切るときの触覚。素材のほのかな香りを楽しむ嗅覚。さまざまなデザインを目で見て味わう視覚。そして聴覚。和菓子には古典文学や四季の移ろいに想を得た名前 (菓銘) がつけられている。
そうした雅な菓銘を耳で聞くことによって和菓子の世界は広がる。
五感のうち、特に視覚と聴覚がそれまでの菓子の世界に加わることによって和菓子が大成する。例えば饅頭を黄色と白に染め分け、9月9日のの重陽の節句にかかわる菊の着せ綿にちなんだ
「着綿」 (きせわた) や初冬の朝、池の氷に閉じ込められた童貞を道明寺生地と羊羹で表現した。「薄氷」(うすらい) のようにお菓子のデザインと名前を工夫することによって、小さな和菓子の中に日本文化を取り込む。平安中期の承和年間、国内に疫病が蔓延した。仁明天皇は年号を嘉祥と改め、その元年(848年)の6月16日に、16個の菓子や餅を神前に供えて、疾病よけと健康招福を祈ったとされる。
これを起源として、6月16日に厄除け・逆援を願って菓子を食う「嘉祥菓子」の習俗が、さまざまに形を変えながら、平安期から中世・近世まで存続した。全国和菓子協会は、こうした故事にちなみ、日本の食文化を正しく隆盛に後世に伝え残すために一層の努力を積み重ねることを目的として、この記念日を制定した。


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