和菓子の国へようこそ
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 南蛮菓子(なんばんがし)とは、安土桃山時代に外国から輸入された菓子のことであり、現在では和菓子の一種として分類されている。“南蛮人の持ち込んだ菓子”の意。 主な南蛮菓子≫カステラ:長崎市の銘菓としても有名。 PR 上菓子は以下のような素材、中間素材、製法をもちい、美的につくりあげる。 《こなし》 白こし餡(手亡豆等の隠元豆、あるいは白小豆の餡)と薄力粉をまぜて蒸したものに砂糖水をくわえねりあげたもの。色をつけてさまざまな形に加工する。梅の蕾をかたどった「未開紅」、紅葉にしたてた「竜田川」をはじめ、くず菓子の童貞など多彩に展開する。
日本の饅頭の起源には2つの系統がある。ひとつは1349年に禅宗の僧と一緒に中国から渡来した林浄因と共に入ってきたと言われている。その際、禅宗のお茶と一緒に食べる菓子として饅頭を用いる事を考えた。しかし従来の饅頭は肉を使ってしまう(本来の仏教では肉食は禁じられていないが、日本では肉食を禁じた)ので、代わりに小豆を使った饅頭が乱交されたと言われている。その後、林は奈良の漢國神社の近くに住居して塩瀬という店を立て評判になった。お盆の行事として8月1日は釜の蓋と称し饅頭の日でもある。林浄因は漢國神社境内社の「林神社」に祀られ、製菓業者の信仰を集めている。 もうひとつの系統は、林が伝えたとされる年より100年ほど遡る1241年に南宋に渡り学を修めた聖一国師が、福岡の博多でその製法を伝えたと言われる。聖一は辻堂(つじのどう=現・博多駅前一丁目)に臨済宗・承天寺を創建し、博多の西、荒津山一帯をたく鉢に回っていた際、いつも親切にしてくれていた茶屋の主人に饅頭の作り方を伝授したと。このときに茶屋の主人に書いて与えた「御饅頭所」という看板が、今では東京・赤坂の虎屋黒川にある。奈良に伝わった饅頭は、ふくらしこ粉を使う「薬饅頭」で、博多のほうは甘酒を使う「酒饅頭」とされる。 マーラーカオなど従来の饅頭(マントウ)を起源とした中華風の饅頭は、中華まんとして区別されている。なお、現在の中国でマントウといえば、なかに餡も具も入っていない一種の蒸しパンである。中に具が入っているものは包子(パオズ b?ozi)と呼ばれる。
一般に和菓子は植物性の原材料を使った嗜好品と説明される。
食品の絶対条件である味覚。歯ざわりや舌ざわりや楊枝でお菓子を切るときの触覚。素材のほのかな香りを楽しむ嗅覚。さまざまなデザインを目で見て味わう視覚。そして聴覚。和菓子には古典文学や四季の移ろいに想を得た名前 (菓銘) がつけられている。 そうした雅な菓銘を耳で聞くことによって和菓子の世界は広がる。 五感のうち、特に視覚と聴覚がそれまでの菓子の世界に加わることによって和菓子が大成する。例えば饅頭を黄色と白に染め分け、9月9日のの重陽の節句にかかわる菊の着せ綿にちなんだ 「着綿」 (きせわた) や初冬の朝、池の氷に閉じ込められた童貞を道明寺生地と羊羹で表現した。「薄氷」(うすらい) のようにお菓子のデザインと名前を工夫することによって、小さな和菓子の中に日本文化を取り込む。平安中期の承和年間、国内に疫病が蔓延した。仁明天皇は年号を嘉祥と改め、その元年(848年)の6月16日に、16個の菓子や餅を神前に供えて、疾病よけと健康招福を祈ったとされる。 これを起源として、6月16日に厄除け・逆援を願って菓子を食う「嘉祥菓子」の習俗が、さまざまに形を変えながら、平安期から中世・近世まで存続した。全国和菓子協会は、こうした故事にちなみ、日本の食文化を正しく隆盛に後世に伝え残すために一層の努力を積み重ねることを目的として、この記念日を制定した。 |
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